昭和57年10月10日 月次祭
今日お昼のコーヒー部会でございましたが、福岡の野中さんいつも会の時に司会をされる青年の方ですけれども、いつだったかお夢を頂きました。と言うのは汽車に乗っとりました、ところがその汽車がトンネルに入って、しかもそのトンネルが曲がりくねって、こりゃ大丈夫だろうかと思う様なところでございました。たら次の明るい所へ出ただけじゃなくて、それこそ花園の中を行く様な汽車に乗っておるお知らせじゃったと。この偉い頂いとるですねこりゃ。
合楽の言うならばお徳の汽車と申しましても、こうお参りをしたからすごく自分の思う様になったおかげを頂いたと言うおかげもあろうけれども、本当のおかげと言うのはそんな簡単なもんじゃない。やっぱりその間に力も受けさせたい光も受けさせたい。心に力を心に光を神様が願われる。ですからなら合楽と言う汽車もう絶対合楽世界に行ける、汽車にお互い乗せて頂いとるのですから。どんなその真っ暗い曲がりくねった道を走る時でも、不安も無いおかげの頂けれる信心を頂くために。
これは例え汽車の中でトンネル中で真っ暗な思いをする時でも、自分自身の心の中から光を放つ光を頂きて起きたりするのであります。そしてそれこそ夢にも思わなかった花園の中を走る様なおかげの世界、合楽世界の住みたいのでございます。先ほどから私の3男であります幹三郎が久しぶりに前講の御用を頂いとりました、本当に自分が頂いておる信心、絶対の信心間違いのない信心、しかも自分が頂いて自分でもこの位のおかげを受けられる、それを皆んなにも一人一人に分かって頂きたいと言うな。
そういうものをあなたがこう何かまぁ早口に、咳き込む様にしてお話をしておる中に、私はそれを感じましたが、皆さんどうだったでしょうか。自分が頂いておる絶対のもの、自分が絶対自分が間違いがないの無いと思うもの。それを合楽に求め親先生を真に分からせてもろうて、こんなにも合楽で説かれる御理念と言うのは、有り難いものですよ尊いものですよと言う事を、それこそ卓を叩かんばかりにして、お話をしているのを聞きましてね、ほんとにこの銘々が頂いとかなければ。
またこれを人に頂いてもらいたい、と言う神心が生まれて来なければ、あんなお話は出来ないと思うんですが。皆さんどうでしょう。と言うて合楽を信じとります、立派です間違いありませんと、というてもねそれが不思議な事に、その人の信心の熱情と言うものがないとあぁ言う風には話されないもんです。こりゃ私の体験から言える事です。自分が本気で打ち込んでおる時であって、始めてあぁ言う話が出来るんです。これはもうあのう学院に行く前からあのう大病致しました。
退院して帰ったその明くる朝から、私の朝の3時には私を迎えに来てくれます。そこにやはり若いもんですから眠たくもありますよ、けれどもそこを押して修行さして頂いておる、一つの信心の熱情と言うものが本人がお話の中に、同念心と言う言葉を使っていますね。神様にたいする同念心そこがまだわかるとは思われんけれども、いわゆる親先生に対する同念心親先生に傾倒していく、親先生が言われる御理念のと言う事の素晴らしさ。あの人達は私共と違ってそこに勉強しとりますから。
いろいろキリスト教やら仏教やらの大主教の事も、段々分かって来るですけれども、その人間を助ける筈の宗教が、助ける働きになっていない、いやむしろ押し込んでいく様な事にもなっているじゃないかと、言うな事も話の中に申しとりました。合楽の場合それがない十全である、誰でもそも気になれば助かられるんだ。とまぁお話をしておる分けでございます。そこでいわゆる同念心なんですよ、そうせずにおれないものんです、湧いて来ることなら金光教の信心を信ずる。
合楽の信心が分かった。親先生を信じておる傾倒しておりますと言うてもです、自分自身がやはり朝の3時から親先生の御用をさして貰う。そういう修行に本気で燃やして行く内に、その同念心というものが段々培われて来るのです。そして初めて自分の助かりを感じるんです。最近先ほど申しておりましたが、信行とは信行だから私それをこの御結界に於いたあるのをみてもうそれ以来、私の信心修業は生涯これに掛ける事だろうと、思わせて頂いて今私の取り組んでおる最高の修行であります。
心行とは信行とそれも心行もただそれに撤しなければ、と言うこう事でございますが私はこの心行は今の私で言うと、心行であり信行なんです。信心の行にも通ずるです心の行は。信心の行にもつながるです。現在私がしとる心行は信心の行につながるとこういう。勿論それが神の行です。生神とはここに神が生まれると言う事であって、皆んなもその通りのおかげが受けられると。と仰せられます様に、生神に向っての精進なのですから。心行だから心行、信心の行と言う心の行。
それから神行とは神様へ一歩一歩近づいて行く為の行だと言う様な事を、まぁこりゃ自分自身が頂いてそこへ控えておったのを見て、私自身はぁこれは私が生涯に掛く信心だなと、現在思わせて頂いとります。信心。私はこの頃目が大変薄くなりまして、もうここの一番前におられる方の顔もぜんぜんわかりません。ですからもうとにかく部屋が何処の部屋もどこの部屋も薄ぐらぁっくしか見えません。はぁこりゃ薄暗い電気をつけんかっと、自分自身の眼が薄くなってきよる。
私共が言うが不安だったり、悩みであったり苦しみであったりそれは、暗い世界の居るからです。心が暗いからです、自分自身が見えないで、それを勉強せよあすこは暗いここが暗いとこう不平不足を思うておる。自分自身の眼がねはっきりしてくれば、こわいものもなくなってくる。心に光を頂けばこわいものもなくなってくる。本当な事が本当として分かって来る。いよいよ本当な事が分かって来る。今日は金光青年が参って来とりましたから、古川先生が御用しとりましたが、古川先生を読んでもらいます。
その中にこの先生ある先生が金光青年の記者たち5人に向って、お話しとられる中に、合楽の事を話しておられますなぁと言うのです。読んでみて見て下さいと言う読んでもらいました。ここに一日か二日間御参拝になった先生であります。よう一日か二日でこれだけの事を合楽の事を話よる様になっとられるなと、ちょっと打ち子でおかげの泉やら、ほかの色んなものを送っておりますから、と言う訳でしたけれども、その方のところは大変まぁ山の中でさんその大きな教会で、写真が出とりました。
ところでそこでは沢山お参りがあるんだそうですが、御霊関係を言われる。学院に修行するの時分に若先生がたまたまそのお教会に修行に行かなければならない事になったんです。学院在学中にそりゃもう京都から、2時間半も山のなかへバスで行かなきゃならない。そして行って玄関に立った途端にその先生が、ご結界からあぁああたも後ろには何代前の御霊様が縋ってござる。まぁ皆さんもご承知のように古川家といやぁもう金光家の、まぁ名門であります。
古川家といやぁ教祖様奥様のお里である。しかも教祖様の何番目かの娘さんですかが、いわゆる末の神の義人様がそこにお嫁にいっとられます。だから金光家と古川家とが一つになっとるのが今の古川家なんです。それで古川家の何代目の御霊が助かっていない事まぁ言われた。だからあんたがここに修行に来たので私が御霊の助かる事をお願いしてあげると言った様な事らしい。ですからまぁ一辺きりの御信者が多いらしいですね。まぁそれは京都当りからでもどんどんお参りがありょる。
お尋ねするとあんたん所の家の隅の方に柿の木があるでしょ、あの柿の木を切ると運命が変わるとかね、あんたがたん庭の隅にゃ井戸があるでしょ、あの井戸を埋めなさらにゃいかんとと言う風な事を言われるんです。それでやっぱり当たる訳です。確かに言われてみると柿の木があったり古井戸があったりする。だからそういうかていのねいうならあって行けないのじゃない。教祖様でも始めの頃はやはり御先祖の御霊とこう話しをなさるような時代があったんですから。
そこでなら合楽理念でのその話をなさっておられるが、もう何と言うても合楽が一番最高だと、まぁそりゃ素晴らしい自分な1辺1辺こうしてお話を頂いたが、とにかく天地日月の心になること成り行きを尊ぶ事、成り行きをいよいよ大切にすると言う事を、まぁ真に説かれると言う事をずうっと話しておられます。だからこりゃもう間違いはなくて立派なんだけれども、それは難しいと言っとられます。だから家の信者はと言うてうちに自分は3時に起きて金光様のお出ましを拝まれる。
そしてお玄関のところからお供してあぁして入って来られる。だ金光様が御結界に疲れる、金光様が植木屋の近く金光様が植木屋の近く、金光様ともかくランタンしよるとを作ってある。そこで信者にもそれを教えられる。朝の3時からと言う訳に行かんからあんたが、先ず朝起きて玄関を開けたら、玄関の一番前の辺に金光様専用の座布団を作るべきである。そして金光様どうぞそこにお座りくださいと言うて、毎日が始まる。言うなら金光様を頂くと言う信心だと。
それで皆が助かっておかげを頂いておると言う話を長々としておられます。所がまた最後に、そりゃ合楽の先生は素晴らしくて素晴らしいと、いうなら本部の方でい言っておるね難しい事にばっかりなって、教学的になったから人が助からんごとなんた。もうそりゃずけずけと本部の時なんかでもまぁ言うとられます。それでなら合楽の事も言っておられた、合楽は絶対だ間違いがないとは言うておられるけれども、これは難しい所が不思議な事に合楽の信者はそれを実行しておかげを受けておると書いておられます。
どうでしょうか皆さん、合楽理念を知っておるまた実行もしておる、いわゆるこれこそが天地じ一の世界に住んでいくんだ、言うならば心行は信行なりで私共が言うならば、神の行をして行かなければならない様に御理念じゃ説くんです。天の心に地の心成り行きを地の尊ぶと言う生き方と言うのは、もうそのまま生神への精進であります。だからそれを知っておる時時行うてると言うのではね、しかし本当のおかげならん心に力を光を頂けない。真っ暗いトンネルの中をお通っておる時にです。
こりゃ大丈夫じゃろうか親先生があげん言いなさるが、こりゃ大丈夫じゃろうかとその真っ赤な汽車からでも飛び降りろうごとある思いがする、そう言う時にこそ自らの心の中に光を頂かなければならないという。どんな真っ暗いトンネルを行く時でも自分の心に光があれば、不自由する事はいらない。しかもそれが明るいところに出るだけではない、花園のような世界をいうなら、合楽世界へ向かってお互いが進んで行くのでございますから。それを例えて申しますと、言うなら真の道だと合楽では説くのだ。
だから合楽で説かれるのは真の道なんだけれども、それはなかなか難しいとまぁその先生はいっておられますけれども。あいらくではそこを簡単です明瞭です、しかもおかげは確かです。と言う風に申しますから。これも先ほど幹三郎の話じゃないですけれども、これが本当だと分かり信ずるその人に傾倒する、親先生の言われる事に傾倒していく。そこからその童念心を燃やせと。その童念心とというものはもうそこに、厚さも寒さも眠さも感じない程した生き生きしたものが生まれて来る。自分が助かって来る。
その自分の助かりを人にも、いうならば先程ここで幹三郎が離しておったような、即時急いでね一人一人に分かった貰いたいと言う様なものが、生まれて来るのじゃないでしょうか。真、真誠の人こう言われますが、真の1人が今朝からの御理解の中に、人を軽うみな軽うみたらおかげはなしと、こりゃもう教祖の御教えの中でもちょっとかわった御教えですね。断言おかげを断言しとられます。また薬ではおかげが受けられんぞともう断言しておられます。
人を軽うみ様なことではおかげにならん。本当にそれこそもう体中から膿が血膿が出る様な人を、あの光明皇后という方は千人風呂を作って、沢山な難儀な人病人を扱われたと言う事。あるひそれこそ御薦さんがやってきた、もう体中から血を血膿が出る様にある、外の者はそれを嫌ったけれども、自分口でその足から出る血膿を吸うてやって、お風呂へ入れてあいたすけ、なんとその御薦さんこそ観音様の化身であったと言うお話でございます。こりゃだからお話だけじゃないです。
もうこんな人こんなと言う様なものを言うならば、神を氏子としての取り扱いが出来る様な、そこに神様の御姿がその向こうにある。神様のはたらきこりゃもう私の体験から言える事です。なるほど人を軽うみたらおかげはなしです。だから私共はやっぱりね、あのひとはまぁろくな人じゃないとか、人間が軽いとかまぁいろいろそのう、軽うみにゃおれない様な人もありますけれども、よくよくその人の真性と言うのに触れてみておりますと、その人でなからにゃならん素晴らしいものがあるんですが。
それを発見よし出来なくってもそれを大切にしていくと言う生き方から、もう必ずその人が日々の宝を持ってきてくれますです。こりゃ皆さん今日の人の御理解に、人を軽う見たらおかげは無しと断言してられるのですから、ならそれを人がお粗末にするような人でもこりゃ物でもとくばらでも同んなじですけれども、それを押し頂いて頂く様な心になれば、おかげがあると言う事が言えるでしょう。粗末にすればおかげはないと断言。それで今朝から私は皆さんに聞いてもらうのは。
私が言うておることを皆さんが実行するなら、おかげがあると断言できるというのでございます。間頃の信心が分かるためには先ず真の人にならなければいけないと、今日は君子自重と言うお話を致しました。君子と言うのは君の子と書いてある。殊勝な言葉です。時に長くおりましたが、その君子自重が至る所にこう長ぁい青巒のところにこう貼ってある。始めは何のこっちゃろえらい良い言葉だなぁと思いよった。なんと良い言葉ですからね。君子、お互いの君子自重しにゃいけません。
いわゆるお道の信心を頂いておる君子として、お道の信心を頂いて真の道を歩かせて頂いておる者として、真との人を目指さして貰うと言う事なのですから、だから自分はお道の信心を合楽の信者であるという自重がいるのです自重が。後ろに合楽の看板を掛けておると思い、はぁあの人の修姿なかなか素晴らしい人と思いよったら、後ろにこう合楽と合楽のご信者さんじゃったと言われる様な内容を身につか体です。
今朝から御理解のくきのあとにつくのだから、せいろのお母さんがやってきましてから、いやぁもうあれにゃもう今朝の御理解頂いてから、ありゃもう10年前でございましたとこう言うのです。あすこん前にきなんかこう誰でも自動車行きょっちゃった、立ち止まってから小便するところがあるとですもん。そりゃもう金光様の信心知らんときゃそれで良かったけれども、ご地内を乱れけがさづと皆んながあすこをけがしますからというお届けがあった。
それで私が君子自重ち書いてやった。それをそこに貼って下さいと。でそこに貼った訳です。そんならそのう叔母しゃんこりゃなんのっちいうもん。そりゃあんた君子自重ち書いちゃるじゃんのちいうちから小便まりょるげなもん。おばさんこりゃなんのち言うちから小便まりょる。ほんにありゃ先生10年前にあれば書いて頂いて、でそのうでこうこうでしたとこう言う訳ですけれどもね。金光様の御信心頂いとれば自重せねばおられんでしょうが。ときにゃそのあちらこちらに小便まる様な事は出来ません。
ねぇやめだまえだにけがしたと言う事なんです。昔は御本部参拝には絶ぇ対汽車の中では、合楽のご信者さんは便所に行きませんでしたよ。だからもう駅へ来て止まったちゃんとホームに中に便所があるとこはもうどこどことちゃんと知っとるみんなが。あんたどこどこの駅までようこらえとるもんじゃがら、一生懸命はいしてまぁ行く様なね、まぁ今から考えますとおかしな事でしたけれども、やっぱり本気で修行しようと思っとる時分な私がはいでそうであった。
普通めがりゃせんですけれどもね、やっぱりそのうおかげを頂く。私共の妹が久留米に言ってバスの停留所におったげなが、若い後ろにいろいろ話しょるげなもん、それがちょうど椛目の話。椛目にこうこうするちゃそうぅにゃ御利益があるげなじゃないかっち、から話しょるげなもん。そうぅにゃお参りあるごたるふうじゃん。そればってんおまやぁあすこに参るろとおまやぁ、小便もまられんじゃねいじゃねいかっちから、話しよるという事お聞いて妹がかえて来て話しました。
商売するくらいにやっぱりですね、外ででも小便する様な事があっちゃ、久留米の龍さんなんかはもうひこめるくてね、自動車でこう途中でこう家まで帰りょんなさった、今でもそうです。と言う位にやっぱ徹底してご地内をけがさんと言った様な事でね、ま取り組んでおった時代がございました。それは何処までもお道の信者であると言う自覚。いわば真の道を行く者の真のあり方になりたいと言う自覚。言うならばわれ君子自覚に立って自重するのでございます。
今の合楽では違いますけれども、いまでなら合楽で一切神愛論であるとか、御理念によりきつかと言う事になって参りますとです、御理念を信じ御理念を行じて行く者としての、私は自重がいるじゃないかと、それが真の人を目指す者の在り方ではないかと言う風に思います。いよいよ今信徒会長先生が申しておりました様に、間近になった御用が毎日毎日ある、今日私ここを下がりましてここに付きましたら、古川先生が親先生今日は朝からもう百名からの方達が御用を頂いとりますと言う。
ほうもう広かけんねどこで何をしてござるかわからんごたある。きょうは百名からの御用を頂き、しかもその帰り掛けには一人一人がもう、本当におかげを頂いて始めて朝からこの様に一日、合楽におらせて頂いて有り難いちゅうてお礼を言うて帰りょる。ははぁこれが神様の御用だなと思うた。きのう一昨日ですかここの田中さんがお礼に出て見えて、今日はなんか村内でなんかいろんな御用があった。それでちょうどたまたま田中さんが芋の天婦羅あげんならん役目にあたった。
そん時に御祈念をされた。どうぞこの芋の天婦羅がね一人一人美味しゅう喜んで頂けるような、美味しいお天婦羅に揚がります様にと言うて祈りをそれこそ込めて揚げた。もうそれが売れること売れる事その皆んな、帰って来る事を思うた。きょうの天婦羅はつがるさん違うとったばい。今日の天婦羅は美味しかったぁって皆んなが言うて頂くのを聞いて、はぁこれが本当な御用だなぁと思うたと。御用と言うのは神様が喜んで下さる人が喜んで下さる。
商売をするなら合楽理念と言うが、なら合楽理念の商売人はどう言う事かと言うと、もうお客さんが喜んでさえもらえば良いという商売でなからにゃ駄目だと。うちで大根一つ作らせて頂く出もご飯一つ焚かせて頂くでも、うちには年寄りもおりゃ若い者んも居りますから、年寄りにも若いもんにも向きます様な頂けます様な、お食事ができます様にと家庭の主婦が、そういう祈りを込めて出来る食事の準備こそ本当の御用であります。そのことを私田中さんからこのてつふきを頂いておりました時に。
それが天地への還元と言う事を頂いた。天地への還元と言うのはこの沢山のお供えでもすると、言う事だけが天地への還元じゃないです。私共の日々の御用そのものが天地へ、とにかくただ自分がきつかったきつかったと言うだけの働きではなくて、今日も一日お使い回しを頂いて、それがお商売人であるならお客さんが喜んで下さる事さえできればと言う様な内容、これを食べてしょくして下さる方が本当に喜んで下さる様な、という祈りを込めてのその仕事であり御用であって。
始めて御用であり天地への還元ということにもなって来る。今日御用を頂かれた方達がもう心から今日一日の御用を喜んで帰られるように。これならば神様への還元天地への還元、天地へ通づるのである通うのである。もう数日間いうならば記念祭記念祭と言う事でございますが、その記念祭に掛ける皆さんの情熱と言うものがです、出来るならばいわゆる神様に通じるような情熱でありたい。燃やしたい。何時もここでは御大祭前の日前夜祭が行われます。
前夜祭はまぁ殆ど内内の祭りですけれども、やっぱり外祭がございます。今年はその前夜祭が来年のために大きな歴史米が出来ます。歴史米があのうお供えするごとなっとりましたけれども、時間の関係で出来ないそうでございますから、前夜祭に奉納しようと言う事になりました。こりゃ普通の旧舞いと違って大変念の入った舞でございます。いわゆる前夜祭は前夜祭らしゅう盛り上げるお祀りでございます。言うならば明日のお祭に女の方がこう綺麗にまぁ日本髪を結いあげるのがお祭であるならば。
前夜浅いと言うのは前のあし綺麗に落として、垢を落として洗い上げる様なものであります。そして明日の明くる日は見事にそれをジガジガにばっかりに、しておく準備が前夜祭であります。そういう意味でっひとつ前夜祭からおかげを頂いて頂いたい。そしていよいよ16日の御大祭は、もう本当に合楽に言わば千人衆と言われる方達がです、喜びの心をそこに一束にして上様に奉納したい喜んで頂きたいと思います。
今日はそのお祝詞が例えばお祝詞が、今日は佐田先生があのう作って持ってきて読んでくれました。とてつも自分がそのほんならあの読みながら自分が嗚咽しちゃるもん。私も気持ちが一杯になった。何十年前のことからもう合楽の信心をつぶさに知っておらなければ、あんな素晴らしいお祝詞は書けないだろうと思われるような、素晴らしいお祝詞をです、もうそれこそ誇張がない。嘘がない。真真実をこうずぅと今日までおかげを頂いた来た模様を、お祝詞に書いてございましたが。
本当にあのお祝詞を聞かしてもろうて感動致しましたが、そういう感動の喜びの渦に浸り心に信心のいよいよ喜びの花を、それこそ満堂に咲かせたい15年んの記念祭を境に、」また一段と御比礼が頂けれる、おかげが頂けれるお祭として頂きたいです。皆さんも一人一人の心のなかに、もう如何にしてでも生き生きとした、瑞々しい喜びの花を心に頂いて前夜祭から、16日のお祭に掛けたと言う願いをもって、ひとつこりゃ共々におかげを頂きたいと思います。皆さんが私を信用しないと言う人は。
まぁここにはおんなさらんと思うまだ傾倒しとられると思う。はぁ親先生任せになっとけばと言われる、けれどもね先程幹三郎が始め話しました様に、自分の信心の情熱を掛けないとね、あぁ言う勢いになって来ないです。銘々の中にどっかそこ辺の教会に金子ちゅう先生がおられる。その金子先生から何かを頂いたというあのうお知らせを頂た、金子と言う事は金子と書いてある。私幹三郎はもう金子大明神の御神格をもやるぞと、言うておられる様なお話を聞きながら思を致しました。
自分の神格がこう高められていく、信心とは、わが心の中に位を頂いて行くこと、一年一年有り難うなること、そこを私は確かめる手立てがです、記念祭大祭などの時に、自分の信心が何処までおかげを受けておるかと言う事を、分からして頂くまぁよしなともしたいと思います。どうぞひとつ、まぁいよいよ有り難いお祭を頂かせて頂きます。合楽示現活動と言う事を言われる様になりましたが、こう言う様なお祭を境に合楽示現活動に参画さして頂く、こよないまたチャンスでもあると思います。
どうぞ。